東京高等裁判所 昭和40年(ネ)2428号 判決 1968年9月02日
控訴人 国
訴訟代理人 鎌田泰輝 外一名
被控訴人 桜井範治
主文
原判決を取り消す。
被控訴人の請求を棄却する。
訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。
事 実 <省略>
理由
一、被控訴人が昭和三五年九月一四日静岡地方検察庁沼津支部より林邦男に対する傷害致死事件の被告人として静岡地方裁判所沼津支部に起訴されたことは当事者間に争いがなく、<証拠省略>によると、その公訴事実は「被告人は昭和三五年八月一四日午後七時過頃、三島市梅の平所在芦の湖スカイライン工事資材搬入用仮設道路上において、林邦男(当三〇年)と些細なことから口論し、憤慨の果て同人を右路上に投げ倒し、同人に頭蓋底骨折等の傷害を負わしめ、因つて右頭蓋底骨折による脳圧迫のため同月一五日午前二時過頃同人を三島市宮川町一五二六番地所在吉田医院において死亡するに至らしめたものである。」というにあることが認められる。
右公訴事件については、<証拠省略>によると、昭和三六年一一月六日静岡地方裁判所沼津支部においておおむね前記起訴事実が認められて有罪判決が言い渡されたことが認められるが、昭和三八年八月一〇日東京高等裁判所において結局無罪の判決が言い渡されて確定したことは、当事者間に争いがない。そして、被控訴人が捜査開始以来一貫して林を投げ倒した事実を否認し、当夜林とともに誤つて道路わきの斜面から転落した際林がその死因となつた傷を負つたのであると主張してきたことは、当事者間に争いがなく、<証拠省略>によると、被控訴人のこの弁解が容れられて控訴審で無罪の判決を受けたものであることが認められる。
二、そこで、進んで、本件の争点である検察官の起訴行為についての過失の有無について考究する。この点については、要するに、控訴人の主張するような経緯のもとに収集された捜査資料に基づき、これを総合して(その後の刑事公訴事件の推移において現れた各証拠とも対比しつつ)客観的・合理的に検討してみたとき、担当検察官として被控訴人の有罪の可能性が十分であると判断したとしても、まことにむりからぬことでやむをえないと認められるか否かにかかるものといえる。
まず、本件起訴のための資料とされた証拠のうち、被控訴人が原審以来重大な瑕疵を含むと指摘するものについて考えてみる。
(1) 医師森岡寛作成の鑑定書について
<証拠省略>には、「創傷ノ部位程度形状」の項に、「本作ニ関シ甚大ナル損傷ト推定セラル部位ニシテ鈍体(例ヘバ硬キ道路上ノ様ナモノ)ニテ強打セシメラレタルノ証跡ナリ」、「本件ニ関シ硬キ鈍体(例ヘバ硬キ道路面)ニテ頭部ヲ強打即投ゲラレタルト推定スル証跡ナリ」、「本件ニ関シ争闘中障害物ニヨリ擦過セラレタルノ証跡ナリ」等の記載があり、さらに、「成傷器ノ種類並用法」の項にも、「兇器ヲ使用セルモノニ非ズシテ争闘シ硬キ鈍体(即チ硬キ道路ノモノ(ママ)場所)ニ投ゲ頭部ヲ強打セシメタモノト推定ス」との記載がある。しかし、検察官が右各記載の内容をそのまま単純に信じた結果本件起訴を行なつたと認めるべき証拠はないのみならず、かえつて、<証拠省略>によれば、本件起訴を担当した検察官である同人としては、右鑑定書のうち単なる推測にわたるような余事記載にあたる部分をただちに採用したのではなく、それ故にこそ、被控訴人の終始弁解するように林が第一現場で道路下へ転落したため右の負傷をした疑いも十分存することからして、同検察官自ら現場を検分し、第一現場の泥土中にあつた石塊一個を司法警察員をして押収させ、これについてルミノール検査をさせた結果は陽性反応を示したことを確認していること(右ルミノール検査の実施および押収にかかる右石塊が陽性反応を示したことは当事者間に争いがない。)、ただ他の捜査資料たる各証拠を総合して慎重に検討を加えた結果、右鑑定書中の前示記載内容と一致する結論に達したこと、森岡鑑定人の過去の研究歴、経験、実積等にかんがみ、同人の鑑定は信頼性が高く、本件死因の鑑定自体については疑う余地がなかつたので(現に前出証拠省略)によれば、右鑑定書による死因と刑事第一・二審判決認定の各死因とは、いずれも「頭蓋底骨折、硬脳膜血腫による脳圧迫」とする点では共通していることが認められる。)、起訴前にさらに同人を取り調べる必要がないと判断したことが認められる。
なお、<証拠省略>によると、森岡証人(鑑定人)は、刑事第一審公判廷において、頭蓋底骨折は墜落の際生じることが多い旨証言しているが、その墜落とは道路に放られたような場合を含む趣旨であることは右証言の他の部分から明らかである。
右のとおりであるから、検察官が右鑑定書について、とくに森岡鑑定人をさらに直接取り調べずにこれを起訴の資料としたことについて、被控訴人のいうような非難はあたらない。
(2) 医師鈴木二郎の取調について
<証拠省略>によると、鈴木二郎は司法警察員の二回にわたる取調に対して、林を診察した際林は友達と柔道をやつて投げられて怪我をした旨意識明瞭な状態で語つたと述べており、検察官としては、被控訴人が柔道五段であること(このことは当事者間に争いがない。)からしてこの林の言葉は信用できると考えられたので、鈴木が産婦人科の専門医であつて林の受傷の程度についてはあまり認識を持つておらず、処置後ただちに林に帰宅を促したところ林の方から夜分箱根までは帰れないから泊めてくれと申し出たのでこれを承諾したような状態で精密検査もしていないからその結果をきく必要もないことや、警察においては右鈴木が林を診察したときにその場にいた吉田病院の看護婦梅原美代子の取調によつて林が柔道で投げられたといつていた事実を確認してあり、鈴木が林や被控訴人となんら特別の利害関係ある者でないこと等を併せ考えて、それ以上鈴木を取り調べる必要もないと判断したことが認められ、その判断がとくに軽卒に失するとしなければならないような事情にあつたとの証拠もない。
<証拠省略>によれば、鈴木は刑事事件の公判廷において、自分の医学上の知識としては柔道で投げられて頭蓋底骨折を起すとは考えていなかつたので林の受傷を軽くみた旨証言しているが、例えば、<証拠省略>においても、柔道で投げられた場合に畳の上のような軟かいところであれば格別、道路のような固いところに投げられた場合には頭蓋底骨折を起すことが考えられると述べていることからしても、検察官において、林が柔道で投げられたということから頭蓋底骨折は起りえないのではないかと疑いを持たなかつたとしても、また、林が第一現場に転落したとき被控訴人に投げられたと感じたものと判断しなかつたとしても、このことにつき検察官に過失があるとすることは酷にすぎるし、他に右過失を認めるべき証拠もない。
(3) 芹沢安彦の供述について
<証拠省略>によると、芹沢は検察官の取調に対し、当夜芹沢と林が酔つた被控訴人の手を引張つたり後から押したりして歌いながら歩いているうちに事故現場に来て、林と被控訴人が足を踏みはずして仮設道路から転落したこと、その前に飲酒した茶屋では林と被控訴人が口論したこと等を述べ、さらに、「二人が仮設道路の斜面を転がり落ちてしまつたので、私がその落ちた辺に行つてみると、下の方に林と桜井が立つていたように思いますが、林が桜井になぜ手を引張つたと文句をいつていて、桜井がそれに対してやはり文句をいつて口論をしていました。……林が何かいいながら四つんばいになつて斜面を上つて来ました。林はそのときは頭が痛いというようなことはいつておりませんでした。林は桜井のかぶつていた帽子を片手に持つて斜面を上つて来ました。林がかぶつていた保安帽は林が斜面を上つて来るときかぶつていたかどうかはつきり記憶はしておりませんが、林が桜井の帽子を持つてもう片方の手に保安帽を持つてはとてもあの斜面は登れませんので、保安帽はかぶつていたのではないかと思うのです。林が最初に斜面看上つて来ると、桜井は下の方で帽子がないといつてさわいでおりました。私が帽子は林が持つて来たと言葉をかけると、桜井も道の上に上つて来ました。それから林と桜井は二人で私より五、六メートル先を歩き出しました。桜井が斜面から道路に上つて来るとすぐ林に帽子をよこせといい出し、そんなことがきつかけでまた二人が文句をいい会つて口論をはじめました。林は前に的屋だつたと自分でいつていましたが、威勢のいい口のきき方で盛んに桜井と口論をやつていましたが、二人が酒の上でいい合いをするのは珍しいことではないので、私もまたやつているなあ位に思つて、五、六メートル離れたところに立つていました。そのうち、二人の方を見ると、林と桜井は口論をしながら互の肩を手で突き合つておりました。周囲は霧があつてうす暗い感がしましたが、人の姿や様子は五、六メートル位のところでは見える状況でした。そのうち、急に「ばたん」という人が地面に倒れたような音がしたので、私はハツとして二人の方を見ました。すると林が桜井の横で頭に両手をあてて頭を抱え地面にしやがんでいるのを見ました。或いは尻を地面についていたかもしれません。その様子を見て私はこれはただごとではないと急いで二人の側に行きましたところ、林は手で頭を押えながら、私に布をくれ頭が痛いというのでした。桜井が懐中電燈で林の頭を照らしたので見ると林の右前頭部から血が出ていました。このときには林の保安帽は桜井が手に持つていました。」と述べていることが認められ、<証拠省略>によると、芹沢が司法警察員の取調に対して、右とほぼ同様のことを述べていることが認められる(もつとも、後者では「林さんの方が最初何かいいながら元気よく斜面を上つてきたのです。」、「その晩私と林さんはプラスチツクで作つてある保安帽をかぶつていたのですが、林さんは下から上つて来るときその保安帽をかぶつていたように記憶しています。」、「その頃は霧があつてうす暗くて余りはつきりは見えませんでしたが、それでも二〇メートル位はぼんやり見える程度の暗さでしたので、二人のそのような様子は大体見えたのです。」などとわずかに趣を異にするところもある。)
芹沢が右検察官や司法警察員の取調に対して被控訴人が林を柔道で投げたと述べていないことは当事者間に争いがないし、前記各書証によれば、林が第二現場でなぜしやがんだかについて芹沢は何も述べていないことが認められる。しかし、前記のような芹沢の供述は、他の証拠と相まつことにより重要な情況証拠となりうることはそれ自体として明らかであるし、<証拠省略>によれば、同人は芹沢に対して林がしやがんだ原因について尋ねたが解らないとのことだつたが、芹沢の供述からみて、林が投げられてすぐかがみ込んだものと思つたこと、芹沢の供述を一〇〇パーセント信じたわけではないが、起訴するについては最も重要な情況証拠と考えていたことが窺われるが、芹沢の供述を他の捜査資料たる各証拠と総合して考察し、さらに、<証拠省略>によると、被控訴人は司法警察員および検察官の取調に対して第二現場で林と口論したことさえ否定していることが認められるなどの事実を併せ考えると、検察官の右見解ないし措置に対する被控訴人の非難は必ずしもあたらないと考える。
(4) ルミノール検査と押収にかかる石塊について
検察官が司法警察員をして押収させた第一現場にあつた石塊一個につきルミノール反応が陽性であつたことは前記(1) 説示したとおりであり、また、<証拠省略>によると、警察官による実況見分後第一・第二現場一帯についてもルミノール検査が行われたが、結局、右石塊以外には陽性反応があらわれなかつたこと、右石塊に反応が出た個所は肉眼で見えないほどのものであり、また、陽性反応を起すのは血液に限らず鉄のさびや動植物の蛋白質などにもあるので、このような微量では人血であることの判定が困難であつたこと等が認められるし、<証拠省略>によると、第一現場は右石塊一個があつたほかはほとんど粘り気のない赤い泥土であつて、林が転落しても致命傷を負うとは思われるような固い物体がなかつたのに反し、第二現場は雑割石を敷いた上に砂を播いた坂道で、雨のため石の角が不規側に路面に出ている急造の仮設道路であつたこと、林が転落した際同人はプラスチツク製の保安帽をかぶつていたこと<証拠省略>によれば、上野証人(鑑定人)はプラスチツク製の保安帽をつけていると否とによつては成傷の程度にほとんど影響がない旨述べているが、<証拠省略>の鑑定書によれば、プラスチツクの保安帽をつけていると否とでは成傷の程度にかなりの差異のあることを実験の結果により記載している。)、林が被控訴人とともに転落するときの二人の位置が、被控訴人や芹沢の司法警察員および検察官に対する供述からすれば、林が被控訴人の背後にいるとき一緒に転落したことになつて、林が東側、被控訴人が西側であつたと考えられるところ、右石塊一個があつたところは被控訴人が落ちた滑り跡と思われるところよりもさらに西側にあつて、かりに右石塊に人血がついていたとしても被控訴人自身の転落による負傷の際に出た血と考えられる状況と判断されたこと、被控訴人自身も検察官の取調に対し、「私や林が転がり落ちた仮設道路の斜面の私達が転がり止まつた辺に比較的大きい石が一個ありました。私はこの石のすぐ側の土の塊りに頭を突つこんだように記憶しております。或いは私の体がこの石に当つているかもしれません。」と述べていること等から、検察官としてはそれが林の血であると断定することができなかつたことが認められ、本件捜査資料となつた他の証拠と相まつて、本件現場の状況を検察官が起訴の資料として重視したことはやむをえないことであつたというべきである。
三、控訴人は、検察官が起訴当時存在した証拠、ことに、受傷の原因につき被害者林が柔道で投げられた旨を吉田病院で鈴木医師に告げていること、森岡医師の鑑定の結果、被控訴人の柔道の技能、被控訴人が当時飲酒しており林と口論をしたこと、現場の状況、芹沢が林のしやがんだ状態を目撃していること等を総合して、被控訴人が林に暴行を加えた嫌疑が濃く、有罪の可能性が十分あると認定したのみならず、被害者の死亡しているという重大な結果が存することも考慮して起訴したものであると主張する。本件に提出された証拠中、本件起訴時である昭和三五年九月一四日以前に作成されたと認められる書証(捜査資料)は、<証拠省略>等であるところ、これらの各書証を総合考察するとともに、これを<証拠省略>ならびに本件その余の各証拠と対比してみるときは、検察官において右控訴人主張のような判断から被控訴人を起訴するに至つたことが認められ(矢野検察官は訴訟の発展段階でそれまでに収集した証拠の証明力が減殺されることがあつたとしても、なお一〇中六分の有罪判決の見込があることを確信していた。)、この検察官の見解ないし措置が、その職責に応じて要求される注意義務を懈怠した結果であるとか、もしくは著しく常識を逸脱して不合理なものであるとすることは酷に失するといわざるをえない。現に本件に関する刑事第一審判決が前記のように有罪であつたことも、このことを裏書するものといえる。また、捜査期間中検察官に捜査資料の収集につき被控訴人主張のような怠慢や偏見があつたと認めるべき証拠もない。すなわち、当裁判所は、本件起訴行為につき検察官に過失がなかつたと認定する。
四、以上の各認定は、原審ならびに当審における被控訴人の本人尋問の各結果その他いかなる証拠によつてもこれを動かすには足りないから、被控訴人の本訴請求は失当であり、これを認容した原判決は不当として取り消すべきである。
よつて、民事訴訟法第三八六条、第八九条、第九六条に従い、主文のとおり判決した。
(裁判官 高井常太郎 高津環 弓削孟)